昭和51年10月27日 朝の御理解



 御理解 第62節
 「昔から、人もよかれわれもよかれ、人よりわれがなおよかれというておるが、神信心をしても、わが身の上のおかげを受けて、後に人を助けてやれ。神信心も手習いも同じこと、一段一段進んで行くのじゃ。にわかに先生にはなれぬぞ。」

 わが身の上におかげを受けて、そして後に人を助けてやれと、わが身の上におかげを頂いて参りますと、だんだん人を助けてやると言う様な信心が薄らいで来るという傾向がある。ということを昨日の研修で問題に致しました。昨日も「わが身におかげを受けたら神心となりてそれを、人に伝えていくのが神へのお礼ぞ」と言う御理解でしたね。初めてお参りをさしてもろうた。本当にそれは素晴らしかった。本当に有り難かった。ただ初めて参ってそれを感じた。
 その感情を帰って家中のものに伝えたり、隣近所のものに伝える。これはもう既に神心だという御理解でしたね。例えばこの度の御大祭を頂いて本当に感動した。初めて参ったのに金光様の信心ちゃこんなに有り難い物だということを、感じて帰ってそれを人に伝えて、そこには何のてらいもなからなければ、只自分が実感した素晴らしいということをそのまま人に伝えた。とにかくあなたも一度参ってみなさいこれが神心だ。
 そういう意味での人を助けてやるとか、導くとか示現活動とか言う事は出来るんだけれども、だんだん信心を頂いて、おかげを頂いておるのにも拘らず、まちっとおかげを頂かなければ人には伝えられない。まぁ言うならば家も立派にならなければでけん。家庭も具合よく行くように、もう何もかにも言うなら真善美に輝く様なおかげを頂かなければ、人には伝えられんと言った様な、傾向があると言う様な事を昨日話した。
 私は昨日、お話を皆さんに聞いて頂く、一番聞いて頂くその実感というか、私の昨日の御理解の元はどういうことであったかと言うと、私の様な者でも、大坪総一郎。私の様な者でもこの様におかげを頂いておる。私の心の状態の上に頂いておるおかげ。形の上に限り無く頂いておるおかげ。それも私の様な者でもかくおかげを頂いておるのであるから、これが誰彼の上にも、自分の周辺の人達に伝えられて、皆さんが信心なさるようになったら、どんなにか素晴らしい世の中が生まれて来るであろうかと。
 それこそ貧争病のない貧乏もなくなる争いもなくなる。病気もなくなる程しのおかげが頂ける。そういうおかげを頂いておる私がです、私が頂いておるような信心を皆さんが頂かれる様になったら、どんなに素晴らしい世の中が生まれて来るであろうか。平和なそれこそ神様の喜んで下さる、歓天喜地ね。歓びの天喜びの地です。歓天喜地の信心が、社会が生まれて来るであろうかと思うたら、人に伝えなければおられない。これが昨日の御理解の私がそれを実感した事から、昨日の御理解を頂いて貰ったんです。
 皆さんでも段々合楽に御神縁を頂いて、自分の心の助かり総ての事の言うなら立ち行き。自分がおかげを頂いておるというその事実をです、人にも隣にも近所にも伝えずにはおられないものを頂いて、段々いっておられると思うんですけれども、それが伝えられないところは、まぁだ自分が本当に助かっていると、思われないからではなかろうかと。只初めてお参りをさせてもろうた。本当に感動した。それを早速人に伝えてその早速人に伝えたということがです、現実に示現活動になりお導きになっておるという。
 もうこれは毎日あの御大祭からこっち続いております。昨日も山口の浅野さんという方が、大体月の十日に月参りを一回させてもらうと、言うておられたんですけれども、まぁとにかく有り難くなって来るとお参りをする。誰かが困った人があるとお導きして参ってくるという風に、まぁ二度が三度になると言う様な、熱情のある信心をしておられます。呉服屋さんです。先日の月次祭に私がこの浅野さんと、四国の川上さんのお話を、手紙をちょうど同じ日に来ましたから呼んでもらいましたよね。
 二人とも初めて合楽の御大祭におかげを頂いた。四国の川上さんなんかもう長い間おかげを頂いておられるけれども、御大祭にお参りしたのは今度が初めてだった。その感動があの手紙の中に聞いて頂いたような事でしたが、浅野さんもやっぱりそうでした。昨日は近所の方に大変子供さんが病気で、医者が病名が分からないというので、難儀をしておられるというので、お婆さんになる人とお母さんになる人と、その病人の本人を三人をお導きして、昨日わざわざ参ってみてね。
 まぁだ合楽にゃ、それこそまだ五回位しか参っておられんと思うです。言うならばその大祭のいわゆる感動です。「とにかく素晴らしい所だから、とにかくお参りしてみなさい」という訳なんです。いわゆる本当の神心です。そういうならみんなそういうなら、昨日ここの村内の方が参って来ておりますね。丁度私が座っておる所の下の地所を持っておったという方が、やはり昨日も参って来ました。
 で昨日私は本当に感じましたですね。神様が助けようという働きが始まったら、不思議な働きが起こって来ると言う事ですよ。ここでなら御神意を頂く事をね、そんなに大事な事と思ってない訳です。まぁ例えて言うなら何処の喃々さんに参ってそれを、まぁこう言いなさるけれども、それを右左する様な事はまぁ平気でような感じです。昨日も結婚の事でも一昨日参ってこられて、あのう鶴亀のお知らせを頂いて、いかにも鶴亀と言えばめでたいごとあるけれども、実はあのうめでたい様でめでたい事ではない。
 歌の文句にもあぁ言うように鶴は千年亀は万年、後の九千年は後家暮しと言った様な事になったんでは、今如何にめでたそうによかろう様にあってもいけん。もう一人の候補者があるならば、そちらの方にする様にと言う御理解でした。ところが息子がその気でおる件で、昨日参ってこられたから「息子さんに話されましたか」というたら、「話しません」。「それがあなた、昨日もう貰いに行くばっかりにしとったら、何かであのうとうとう行かれんごとなった」と言われた時に、私は本当に思いましたです。
 神様が本当に何かで行かれんごとなった。「だから今日行くごとしとります」と、昨日の言葉で。「そんならねもう一遍私が昨日言うた通りの事を、息子さんに言うて主人にも話して、そしてねあのうおかげを頂きなさい」「折角息子が心が進んどるとにそんな事を言うたなら」というごたる気持ちです。「けれどももうそれこそ後々で天と地ほどに変わって来る様な、幸不幸の境に居られるようなのですから、これは話とかなきゃ行けませんよ」と言うて申しましたら。一緒に久保山さんが参っとられましたから。
 久保山さんが私共がお伺いをさせて頂いて、親先生の言われる通りにした時としない時がこんなに違いがありますという話を、ここでして居られた。「そんなら帰ってどうでん息子に話さんならん」。もうその神様がお参りして来た人を助けて下さろうという働きが始まるとそういう働きが起こって来るですね。これなんかも大祭に初めてお参りをされてからの、まぁ感動が今日まで続いておる訳でありましょう。
 浅野さんの場合でもそうです。どういう訳そのそういう初々しいと言うか瑞々しいまでの、人にでも伝えなければ居られない程の感動が、おかげを頂いてきてから段々少なくなって来るかと言う事なのです。浅野さんの手紙にこれから昨日又言って来とりますけどもこう言う様感動です。一番初めから「世界一の親先生。この度は御大祭を頂かせて頂きまして、世の中にこんなに素晴らしい教会があったのかと驚くばかり。
 荘厳な式典。晴れやかな教会の隅々までぴんと張ったような、よく言い現わせないですけれども、隅々までお徳のみなぎった教会に、お引き寄せを頂きまして有り難う御座いました」と言う様な感動ですね。皆さんとにかく一つお参りしてみなさい。とまぁそれをその方だけではありますまい、おそらく自分の周辺に会う人ごとに教会、合楽での感動を話された事で御座いましょう。いわゆる示現活動が出来た。わが身におかげを受けたら神心となりて、人に伝えていくというのが昨日でしたが。
 今日の御理解にも「わが身の上におかげを受けて後に人を助けてやれ」。果たしてわが身の上におかげを頂いてないでしょうか皆さん。そのおかげがですそれこそ、誰が見ても真善美に輝くほどしのおかげを頂かなければ、人に伝えられないという意味じゃないです。日々お参りをさせて頂いて、日々御理解を元にした生き方をさせてもらう。そこに自分の助かり、自分のいわゆるおかげを、まずわが身の上におかげを受けてと言う事はそういうことです。そのおかげをです人に伝えていく。
 昨日はちょうど研修をさせて頂いておる半ばに、次々とお参りがあっておりましたが、その方達が皆研修にまぁ参加。参加と言うか一緒に後ろから聞いておられました。中にあのう森町の大分県。酒井さん達が夫婦で参っておりました。あの武田という先生をお導きした方なんです。昨日武田先生の話をしましたね。お医者さんなんです。もう六十余りのお婆さんです。もう自分で自動車を運転して参ってみえとる。
 で「昨日も武田先生参ってみえましたよ」ち私が言いましたら、私は不思議でたまらんと。あの先生が参って来るということは。この人ぐらい疑い深い人は無かつに、どうしてそげん熱心にお参りするじゃろうか。この人はもう私は信心自分が導いてたまがっとるという訳。そして金光様の有難い事を話されるそうですたい。それで「それはもうあなたよりか上ん棚行くごとなちゃるですよ」ち言うてから話した事でした。例えばあちらは山をたくさん持ってある。
 それをいろいろ自分が山を買ったり、材木屋さんですからお世話をする。「このばばさんばっかりは絶対買いなさい、買いなさいと言うたら絶対やめときましょう」ち言わっしゃる。「こりゃ止めときなさるがいいですよち言うたら、いいやそんならもろときましょう」ち言わっしゃる。(笑)そげな風なばばさんですよち言う訳ですよね。それが今度は又、二・三年前から普請ごとをそのう思い立ったからみんなが勧めるとねいやいや。と言うて、やっぱ「止めときましょう」じゃっとる。
 金光様に参るようになったら今度は本気で普請をするように思い立ったいう話が出ました。その例えば武田先生の話でもそうです。昨日酒井さんが言っておられましたが、「どうして十年か二十年前にこの有り難い信心が分からじゃったじゃろうか」と言われるそうです。けども「十年二十年前じゃったら、とてもこのばばさんが信心なせん」ち言う訳。今じゃから丁度よかった。
 まぁザックバランな人ですけれども、そういう人が助かっていくということが、本当に有り難いということで、もう本当に言うならばその切っ掛けがね、その酒井さんが作られた訳ですけども、そういう御用に使うて頂きたいという願いがね、お互い薄いのではないか。いわゆる神ながら主義というか、言うたっちゃ分からんともう自分で決めこんどるのじゃないか。言わせて頂く者の感動、感激というものがないからではないかと。まぁ昨日の研修の時にね初めてお参りをして感動した。
 その感動は人に伝えられるのに、段々なら本当のおかげを頂いていっておるにも拘らず、伝えられないというのはどういう訳なのかと。これは本当にやはり研修の焦点にならなきゃならない所だと思うです。私が実感しておる様にはないかも知れませんね。私がおかげを頂いてそれもね私位な者である事が、第一分かって私位の人間ですらが、こんなおかげを頂いておるのであるから、こういうおかげをね自分の周囲の人達に、伝えて信心をしなさる様になったら、どんなにか素晴らしい家庭が生まれるだろう。
 どんなにか素晴らしい争いのない社会が生まれて来るだろうかと、思うたら話さなければ居られないという、言わば衝動的なまでの感動というものがない。そして北野の中村さんではないですけれども、いつぅもまだおかげの頂き足らぁんごと思うて居るということではなかろうか。原因は。おかげを受けても受けてもね、まぁだおかげの頂き足らんような思い方がです、まちっと頂かな話されん。まちっと頂だかな次元活動はでけん。と言った様なまぁ言葉を持って表すなら、そういうことではなかろうか。
 自分の銘々の信心が。だからそれならもっとおかげも頂かなければならない。心ももっと助からなければならないためにです、本気でやはり教えを行ずると言う事にならなきゃならない。もうとにかく私位な人間でも腹が立たんようになったと、一切を寛大の寛の字で受けて行けれると言う事だけでもです。私は本当に実行しておかげが頂けたら、悔やんでおる人いつも腹を立てておる人、言うならば貧争病に悩み苦しんでおる人達にです、伝えずには居れない衝動的なまでの心が生まれて来るのじゃないかと。
 まぁ昨日の引き続きのような御理解でしたが。初めての感動の人がね、それを伝えずにはもう伝えずには居れん。「私は昨日、合楽の大祭にお参りさせて頂いたが、そりゃ大した事じゃあった。お参りも沢山じゃった。そしてお話が有り難かった。あぁいう生き方で行くならやっぱ世の中は円満に行くばい、家庭も具合よう行くばいという話をせずには居られないというのです。この浅野さんの場合でも、久保山さんの場合でも、今の近所から今お参りしておられるその方の場合でもね。
 それが何年信心を続けて実際におかげを頂いておる。自分の心の状態もです、言うならば心の使い方も段々上手になってきた。にも拘らずわが身におかげを受けてと仰るが、おかげは受け過位に、言うならばおかげを受けておりながら人に伝えられない。それはまだ頂き足らんと言った様な、まぁ言葉で言うならば不平であり不足である。ような物があるから人に伝えられんのではなかろうか。言うならば生き生きとした信心が欠て居るからだと言う事になります。
 一つの自分の願いを立てて、その願いが成就したならばと言った様なものではなくて、日々助かっておる、日々おかげを受けておるという、その実感が薄いのではなかろうか。神信心も手習いも同じ事。一段一段進んでいくのじゃと。それは伝えても伝わらない事もあろうけれども、それが信心の稽古である。始めから先生は居らん。本気で教えを受ける事の喜び楽しみ。それが自分の生活の上に現れて来る。そこに本当に私のようなものでも、この様に助かる事が出来る。先ずはその実感が生まれてこなければならん。
 私は昨日の御理解の芯になったのが、私の様な者でもかくおかげを頂いておるから、皆んなもこういうおかげを頂かれる様になったら、世の中がどれくらい明るい,有り難い世の中になるだろうか。そこには伝えずには居られないという心が生まれて来る。まず自分が助からなければと言う事は、自分の助かっておるのをもう一遍見直してみなければならない。見直してみても自分が助かっていないならば、あなたは参りょっても教えを行じていないと、いうことになるのではないでしょうかね。
   どうぞ。